Saturday, April 16, 2016

「アインシュタインよりディアナ・アグロン」は果たして女性蔑視の歌なのか

熊本の地震が大変ですね。
テレビを見るたびに心が痛みます。

東日本大震災というのは多くの教訓を残してくれたようで、報道も震災中心だったり、普通にバラエティをやっていたりと多様性をもつようになったし、不謹慎という曖昧な言葉も減り、多様な行動、多様な考えが許されるようになったと思います。

まだまだ震災対応の問題点は多くありますが、多様な考えが許されるようになったというのは素晴らしい学習なんじゃないかと思ってます。

はて、熊本の全ツはどうなるやら。
熊本の震災被害がこれ以上拡大しないように思いを込めながら、全く持って別の話題について今日は書きます。

リア垢を見ていると、HKT48の話題が出てきていまして。

よくよくみたら新曲の歌詞が「女性蔑視」だ…みたいな表現だったので、
気になって私もその記事を見てみました。

→ http://mess-y.com/archives/29624/3

個人的には半分同意しますが、半分は同意できません。

確かに歌詞で書いていることの内容は一部問題がある、と思うのだが、
それだけをもって「歌詞として表に出すことに問題がある」といまでは言えないのではないのか?
というのが個人的な結論です。

以下、細かく思うところを書いてみます。

まず、当該記事を勝手にざっと要約してみると、

①「女子は勉強できても可愛くないと意味が無い」という歌詞は女の子を愚弄している
②上記の例えで用いられているディアナ・アグロンは、むしろ例えとは逆方向の人間であるので、彼女に対して失礼である。
③「女の子は恋が仕事よ ママになるまで子供でいい」という歌詞は女性のリプロダクティブ・ヘルス・ライツの否定である。
④以上の事実より、秋元康は女性差別的な考えを保有している。
⑤子供に教育的な影響を与える「歌」という場で女性を愚弄する表現をするのは問題。

なのではないかと思っています。
それぞれについて自分の考えを書いてみます。


1)「女子は勉強できても可愛くないと意味が無い」という歌詞について

屁理屈であることは自覚しているけれど、個人的な感想として、この歌詞だけで「男はこうあるべき」「女はこうあるべき」という性差別を表現しているとは思えない。

そもそも勉強できても可愛くないと(or格好良くないと)意味がないってのは女性も男性も全く同じなのではないでしょうか?
「男は勉強さえできればいいじゃん…」と考える人がいればそれは全く持って事実誤認であると断言せざるを得ない。
そういう認識に立っている私にとって、主語が「女子は…」とあっても、別に男女を分けて論じたいのではなく、この歌詞の主人公がたまたま女性だからそういう表現になった、と解釈すべきが自然だと考えるのです。

2)「学生時代はおバカでいい」という歌詞について

この表現も、女性が勉強することを否定した内容とまでは言えないのではないでしょうか?
あくまで勉強と可愛くなることの優先順位を比較したら後者の方が断然上!、という話をしたいんであって、そういう文脈だと理解している私にとってこの歌詞にも違和感を覚えません。

ただ学生時代勉強を頑張りたいと思う女性がこの文章を見て不快感を覚えるかもしれないという点は十分に理解できます。
訂正すべきところがあるとするなら、「おバカでいい」と「も」を入れてあげると誤解は生まれ辛かったのではないかというところでしょうか。
日常会話でも、「バカでいいじゃん~」ということを「バカでいいじゃん~」と言っちゃうことってあるあるじゃないですか。
そういう口語体ベースで歌詞って決まってるから誤解のない表現を作るのはそもそも難しいとは思うんですが。

結論としてこの歌詞に関しては、表現を改めるべき部分はあると思うが、女性蔑視の主張を入れる意図があったとは思えないです。

これは「glee」も見たことなければ、「ディアナ・アグロン」という方を知らない私にとって、前掲の記事に反論する余地はない。

前掲の記事にある記述が本当であるならば、gleeで彼女の演じる勉強もがんばる、恋愛もがんばる、世間の目を気にせず頑張るというスタイルの女性を、この歌詞で例えとして用いるのは的外れだと思うし、gleeや彼女に対する侮辱と捉えるのも自然だと思います。

そもそもリプロダクティブ・ヘルス・ライツとはなんぞやという話。

難しい定義の話は差っ引いて簡単に表現すると、
性や生殖行動に関してちゃんと男性も女性も健康でありましょうね、等しい権利を認めてあげましょうね。という話である。

具体的にはゴムをつけないのはHIV感染のリスクを上げるからリプロダクティブヘルス的に問題、だとか、アフリカだと女性が人身売買され結婚相手を強制させられてる現状はリプロダクティブライツ的に問題、だとか、育児休暇を取れないのは男性のリプロダクティブライツ的に問題、だとか、リプロダクティブヘルスライツを保証するために男女等しく教育の機会を与えましょう、など、非常に雑な例だが、そういう使われ方をされる概念である。

ここで例の記事は
「女の子は恋が仕事よ ママになるまで子供でいい」
という歌詞に関してこのように論じている。

「リプロダクティヴ・ヘルスライツを奪われた少女たちの人生はこの言葉のとおり、思春期や青年期がなく子供からいきなり母になる。そしてそれでいい、と彼が軽々と言い放つことにも暗澹たる気持ちになった。」

正直、これは無理なこじつけと言わざるを得ない。この歌詞は「支えなきゃいけないものができるまでは自由にわがままに生きていいのが女の子」という話じゃないのでしょうか。

おそらく子供という表現を解釈するにあたって、歌詞の解釈から考えるのではなく、リプロダクティブヘルスライツ的な文脈で解釈するいわゆる固定観念が記事の筆者にあったのだろうと思う。

「子供でいていい」という表現について、女児の人身売買が普通に行われている環境なら違和感を覚えるかもしれないが、ここは日本である。記事の中でもこの指摘だけは単なる言葉尻をとらえたこじつけと考えるのが自然なのではないか。

むしろ「女の子は恋が仕事」という表現が女性に対する偏見だという主張のほうが私は納得できる。ただこの点に関しても個人的には偏見ではなく女性側が今持っている価値観の一つを提示しただけなんだと思うのだが、その説明は後述したい。

④⑤

そもそも秋元氏の作詞に関する考えは以下のようなものであるらしい。

「作詞の考え方がいろいろありますけれども。僕の作り方って、カメラみたいなもんで。写真を撮影するということで言うと、街には撮りたいものがあふれているということだと思うんですよね。」
http://miyearnzzlabo.com/archives/26874

すなわち「女性はこのようであるべきだ」という秋元氏の主張というより、「このように考えている女性がいた」という秋元氏によるスケッチがこの曲になったというのが正しいのではないのか。

確かに女性は社会にもっと出なきゃいけないという主張は正しかった。その点「女の子は恋が仕事」という決めつけをするのは男女差別だ。

しかしこれをある女性のスケッチだと考えると男女差別ではなくなる。「女の子は恋が仕事」だと考える女の子がいる。こう考えると、否定できない一つの価値観となりうるのではないか。
残念ながら(?)現実世界にはそのような発想をする女性は思いの外いる。彼氏と結婚することを視野に入れて地元に帰った友達もいれば、まったく勉強せずに専業主婦になりたいと思う友達もいる。
さらに言えば割合は少ないまでも、専業主夫になる人もいるのだから、むしろ多様な考え方が許されるような世の中になったのである。

そのような現状野中で「女の子は恋が仕事」「女の子はおバカでもいい」、そういう考えを尊重しないほうが、かえって教育的には多様性を否定することに繋がりかねないのではないだろうか?

秋元氏による一つの価値観のスケッチだ、と考えれば、この曲を女性蔑視だと捉えずにも済むのではないかと思います。

おそらく今回はgleeやディアナ・アグロンのような比喩を使ったから殊更に燃えてるんだろうと思うのですが、私自身もこの比喩を使ったのは間違いなのではないかと思うことだけは最後に繰り返しておきたいと思います。

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